在宅医療・福祉の考え方
高齢者人口の指数関数的な増大という現実を前にして、画一的な隔離・管理型福祉から、多様性に富んだ地域融合・自立型老人福祉が求められている。人として最低限の生活を保障するという基礎的な老人福祉の目的はすでに様々なサービスが提供されており、これらの活用で充足させることは可能となった。しかしながら、世界1の長寿を誇る我が国において、高齢者が自ら生きる必然性、長年蓄積された叡智の活用、社会への責任・貢献、などの機会が限られており、「高齢者」というステレオタイプな枠組みの中で様々な対象喪失体験をしながら社会・コミュニティーから引きこもり、不安の中で終末期を送るという現実は、今のところ否定しがたい事実である。

人生の中で、心身共に充実した青年期を正常ととらえ、老化に伴う機能低下を異常とするのであれば、「疾患」という範疇のみのアプローチですべてが解決するというのが、現在まで多く行われてきた医療重視のサービスであった。完治可能な疾患でない限り、老化に伴う心身機能低下という現実を受容し、それとともに生きていくことができるチャンスの創設が今まさに求められている。プラグマティズム的社会の中で効率だけが強調され、生まれて死すという有機的生物のもついのちの循環性が失われ、終末期において死の不安と同時に生きる不安を持つというのは暗喩的なことである。

「私らしく生き、私らしく終末を迎えること」への支援が、今、特に高齢者に求められている。「老いを遊ぶ」ということが私たちの考える高齢者福祉のゴールといっても過言ではない。また、癌の臨床における末期の宣告は、医療によっては、改善ないし治癒困難であるということであり、その時点で残された時間をいかに自分らしく生きるかということに力点が置かれなければならない。しかしながら、現状では、末期の宣告はあまりに絶望的な意味のみが強調され、現実的にも医療の枠組みからの阻害を意味し、宣告を受けた人は、次々と受け入れなければならない身体・精神機能の喪失の中で、社会的サポートを得ることなく不安の中で明日にも訪れるであろう死を待ちながら生活をする必要性に迫られている。

老人医療、特に痴呆性老人に対しての介護は、介護保険導入後充実してきたが、末期癌患者に対する心理・身体的サポート、機能低下に対する介護は系統立てて行われていないのが現実である。残された時間をいかに生き生きと有意義に送れるかということについて、医学的に根本的な解決法がない老化と末期癌は同等な意味を持つと考えられる。

病院・施設で過ごしても、治癒・改善が見込めないというのが、老化であり、末期癌であり、すなわち、それらの現実を受容して生きることを考えることが求められている。基本的生活水準が維持されている限り、今まで慣れ親しんできた生活の場を奪わず、可能な限り自分らしい人生を維持することを支援することがまず重要であると考える。

多くの高齢者が持つ疾患・末期癌においては、療養と生活とは表裏一体である。従って、愛着のある土地、家、家族、地域の中で生活が送れることはひとの尊厳を維持する上でもっとも基本的な要件と考える。自らの人生に誇りを持ち続け生き抜くことがまさに人間の尊厳といえる。特に痴呆性疾患の場合、痴呆に伴う種々の症状を疾患としてとらえることからは、自立した人生を享受するということはきわめて難しい。人の人たる由縁はその精神活動にあり、その精神活動そのものに変調を来す疾患においては、変調を来したひとそのものを受容するところからのみ、人としての尊厳のある人生を送ることが出来ると考えられる。この実現のためには、様々なアプローチの統合が必要なことは言うまでもないが、具体的には、社会学的、心理学的、人間関係学的、教育学的、芸術学的、宗教学的、などのアプローチのほかに、医学的、看護学的、介護学的アプローチなども当然必須である。

これらの統合の上に、「私らしい生き方、私らしい終末の迎え方」を高齢者・末期癌患者および家族が、自ら考え、自ら選択する機会を提供することが必要であると考える。また、本人を取り巻く家族・地域への介入もこのような高齢者福祉を実現する上で重要であると考える。
限りある人生をより自分らしく自立して生きるために、福祉は与えられるものではなく、自ら築くものであることを一人一人が自覚しなければならない。